「ねぇ、最近野良犬を見たことある?」
「そういえば、見たことないわね」
先日、妻との会話だ。最近というより、ここ近年、野良犬を見ることがなくなっていることに、ふと、不思議な気がした。着飾った犬が、飼い主に連れられて散歩している姿はよく見るのだが。
「野良猫は、うちの周りにもたくさんいるよ。でも、犬は見ないね」と妻。
ちょっと調べたら、野良犬は狂犬病などの危険が多いから役所が保護しているらしい。そして、飼い犬には狂犬病対策の注射があり、役所から飼い主に連絡がくるという。猫にはその心配がないらしい。また、猫を家の中に閉じ込めておくのは、無理というものだ。
私が、ここで気になっていることは、こうした社会のあり方だ。人間にとって、危険だから、不要だから、無駄だから排除するという考え方だ。人間にとって、社会は常に正しく、清潔で、安全で、便利でなければならない、という考え方だ。この考え方を突き詰めれば、私のような怠け者で役立たずは、いつ「不要です」と言われ、処分されるか分かったものではない、世の中がそんな方向に向かうのではないかが心配なのだ。2年半ほど前、神奈川県の障碍者施設で起こった凄惨な事件も、ホームレスに対する若者の襲撃事件なども、こうした考え方の一例かもしれない。
もう、ずいぶん昔のことになるが、「世の中に不要なものが在り続けられるのは、その社会の文化程度が高いということです」と、識者が言っていた。忘れられない言葉となっている。「不要なものが在り続ける」ということは、人々のこころにゆとりがあり、違いを認める余裕と寛容性があるということだ。「こころにゆとりがないと文化は育たない」と言っていた。 してみると、今のギスギスした社会はどんな社会で、どんな人間たちの集まりなのだろうか。