ともいきエッセー

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vol.117 「自分を律せられなくなった社会 バレなきゃいい?」

 近年、気になっていることのひとつに、報道などで見る「第三者委員会を設置して調査する」ということがある。子どものいじめ問題から企業の不正行為など、さまざまな事件や事故・疑惑が起こるたびに、そうしたことを調べる調査機関として、当事者や関係者ではない第三者が集められ当該の問題の原因を調べる。

 こうしたニュースを聞くたびに不思議な思いになる。なぜ第三者が必要になるのか。それは、当事者たちが自分の行ったことを正直に言えばすむことだと思うからだ。しかし、人間はなかなかそうはいかない。自分を守るために嘘も言えば、自分に都合のいいような解釈もする。だから問題に関与していない第三者が必要になる、と。

 こうしたものの見方は、人間は信用ならないという、言ってみれば、人間は生まれながらに悪いことをするという性悪説的な見方ではないだろうか。たしかに、人間にはそういう面もあるだろう。「バレなければいい」というような考え方を持つ人もいる。いま問題になっている関西電力の原発の事業に関わる金品授受の疑惑や多くの金銭に絡んだ事件、また、虐待やいじめもそんな感じがする。良くないことだとは思いながらも、バレなければと、自分を律することができないのだ。詐欺などをはじめとして、こんなことはいまの社会を見ていればいくらでも見ることができる。いや、増加しているとさえ思える。特に若者の犯罪が。そして、ことが露見して初めて我が言動を顧みて反省することになる。いや、反省できれば良いが......。

 彼らに良心の呵責はないんだろうか。そして、みんな、こんな社会でいいと思っているのだろうか。この社会がどうかしているとしか思えない。

 しかし一方で、古臭いと言われるかもしれないが「お天道さまが見ている」「仏さまが見ている」と言うように、バレるバレないとは関係なく、大いなるものへの畏怖から自分の言動を律する教えも昔からあった。そして、多くの人はそれを信じ自分を律していた。こうしたことが、人は生まれながらにして善であるという性善説となって多くの日本人の心を豊かにしていたと思う。

 なのになぜ、現代の日本人の心からそれが消えてしまったのか。これは宗教の衰退と無関係ではないと思う。そしてまた、家族の崩壊とも無関係ではないと思う。

 社会の出来事を見ていると、「不思議だなぁ」と思うことがたくさん見えてくる。

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