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vol 138 「死者の権利」

 23日、土曜日の夜10時からBS・NHKで放映されていた「コロナ新時代の提言――人間はどうあるべきか――」という番組を見た。そこには日本の著名な人類学者、歴史学者、哲学者が出演していて、各氏が〝なるほど″と感心するような意見を述べていたが、その中でいくつか〝エッ″と思う意見があった。

 その一つは、イタリアの哲学者がコロナ禍で亡くなった人への現状を見ていて「死者の権利」と「死者への敬意」の念が疎かにされていることを発表し、市民から「感染防止のためだから」と総攻撃されていると、日本人哲学者が紹介していた。

「死者の権利?」、一瞬、何のことだろう、死者に権利があるのか、と思った。権利は生きている人間に与えられているのではないか、と。

 その夜、床についてから「死者の権利とは何か」と考えた。日ごろ権利などについて考えることがないまま呑気に生きている私は、起き上がり書棚の「広辞苑」を出し、「権利」の項目を引いた。「ア、一定の利益を主張し、また、これを享受する手段として、法律が一定の者に付与する力。イ、あることをする、またはしないことができる能力・自由」と二つの説明がされていた。〝えー、どちらも生きている人間が対象ではないか。死者に権利などあるのか″という疑問が再び沸き上がった。

 再び床に入って考えた。そしてひとつのことが閃いた。「死者の権利」とは、家族をはじめ友人・知人などに看取られ、遺族や友人・知人などに見送られながらの葬儀を行ってもらい、そして丁重に葬られることではないか、と。死の床についたら自分では何もできなくなる。それができるのは家族や友人・知人だ。これが「死者の権利」でなくてなんであろう。そしてまた、遺族には丁重な葬儀式を通して死者を葬る義務があるということになる。これは私の勝手な帰結だが、イタリアの哲学者は、コロナ感染者が看取られることなく亡くなり、本来の墓所ではないところに土葬されていく様子を見てそう思ったのではないだろうか。

 そう思いながら、転じて今の日本はどうだろうか、と。コロナ感染による死者数は、欧米に比べて圧倒的に少ない。そして土葬ではないから、遺骨が家族のもとに戻ってから葬儀もできる。しかし、その葬儀は内内で行われることが多い。参列者への感染を心配してのことと思うが、こうした葬儀はすでにコロナ以前から始まっていた。家族葬、一日葬、直葬、また、僧侶の派遣などを見れば分かる。これは、かつての華美な葬儀を見てきた人々が、葬儀にはお金が掛かるという思いこみが、こうした状況を生み出したのであろうが、一方で、葬儀を出すことが色々なことに気を使うから煩わしいという話もまたあるという。ここに、「死者への敬意」が見えるだろうか。こうした背景には、来世を考えないで生きている時だけを大切にする、というような考え方が背景にあるのではないかと思う。しかし、人間というもの、死が近づいてくると、誰もが死後がどうなるのかを考えるようになる。が、元気な間はそれに気づかず、生きている時だけ良ければと、それも自分だけの人生を考える傾向が強くなっているような気がする。もちろん、他者のことを思い考え、ボランティアなども盛んになってきているし、死者への敬意をもって葬儀などをきちんと執り行う人は圧倒的に多い。また、簡略化した葬儀をしても、亡き人を悼むのは心の問題だから簡略化した葬儀が「死者への敬意」を表していないと決めつけることもできないが、この簡略化が日本人の心にどのような影響を与えるかが心配なだけだ。

 長くなって申し訳ないが、この番組で、人類学者はこうも言っていた。

 「人類の進化は、ことばと接触と移動によって起こった」と。人は移動し、人と会って話すことによって進化してきたということだ。スマホなどでは思いのすべては伝わらないと。そして、感染症もこの人の移動で広がった。しかし、いま、自粛によってこの全てが断ち切られている。こうした状態がいつまで続かく分からないが、世界中が経済のことを考え自粛を解き、そして、これまでのように自然破壊を続けていったら、またどこかで新しいウイルスが発生して、新たな感染症が広がるだろう、と。新型コロナウイルス感染後の世界は、どんな世界になるのだろう。それはまだ誰にも分っていない。

 感染症と経済、両立は難しいのか。新型コロナウイルスの第2派、第3派が気になる。

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